みそ情報箱
みその歴史
 日本の文献に「みそ」が最初に登場するのは奈良時代。中国大陸から伝わったもので、「醤(ひしお)」、「未醤(みしょう)」と呼ばれていました。そのころは寺院や貴族だけが口にできる贅沢な食べ物で、製法も食べ方も現在と比べ多少異なります。その後日本の風土にあった発展を遂げ、戦国時代を迎えるころには現在の「みそ」となっていたようです。当時の武将はその優れた栄養価と保存法に着目し、武士に携行させたといわれ、これを機会に広く庶民の間に普及していったそうです。
 中国には辣醤(ラージャン)=豆板醤(トウバンジャン)、甜麺醤(テンメンジャン)、暇醤(シヤージャン)、豆(トウシ )などがあり、料理によく使われています。韓国料理にはコチュジャン(醤)は欠かせないものになっています。
みそ?
みそと微生物
みそは、微生物の働きによって、つくられます。みその塩濃度は、普通12%前後ですので一般の微生物は、このような厳しい環境では生育できません。みそ中で働く、麹菌、酵母、乳酸菌、このような過酷な条件下でも生育し、みその味・香りなどをつくり出している微生物で、みそづくりにおいて、中心となって働くものです。これらの微生物以外にもみその熟成には数多くの微生物が関与し、特徴あるみその味・香りがつくられます。
食とみそ
 鎌倉幕府を確立したバイタリティは、1日5合の玄米ご飯に、みそ汁と魚の干物という献立によるものだといわれています。一見粗食にみえますが、玄米でカロリーを、干物からカルシウムとたんぱく質をそれぞれ取り、みそで栄養を補給するという食べ方は理にかなった、食事法だったといえましょう。
 以後の日本人における食の基本になり、明治、大正、昭和時代に至るまで長く受け継がれました。米は時代と経済事情、階級、収穫によって精米されたり、麦やひえなどの雑穀になったり、干物が土地によって野菜の煮ものになったりすることはあっても、みそだけはどんな状況下でも変わらずに食べつづけられたのです。そのため、みその醸造だけはないがしろにはできませんでした。他人まかせにせずに、それぞれの家で、「家族(1人)に1斗、客1斗」を年間の仕込みの目安にして造っていたのです。つまり、年間に1人1斗のみそを食べていたようです。
みそ汁と室町時代
 みそが現在のみそ汁のような形になって、庶民の食事に組み込まれるようになるのは室町時代になってからです。 それまでは粒々を残したままで、調味料兼たんぱく質補給源の大豆を食べるのが「みそ汁」でした。みそをすることに気づいたのは鎌倉時代。当時、幕府の頭脳的な役目を果し、知識の源でもあった禅寺でした。粒のあるみそをすることで調味科としての用途が広がり、寺の精進料理は献立を増やしたことでしょう。そして、みそ料埋の発展基盤ができたのが室町時代。みそ汁だけでなく、今に伝わるみそ科理のほとんどが、このころから造られるようになっています。この時、みそは大きな飛躍をしたと考えられています。
保健とみそ
 「医者に金を払うよりも、みそ屋に払え」 〜江戸時代のことわざです。『本朝食鑑』(元緑8年・1695)によると「みそはわが国ではむかしから上下四民とも朝夕に用いた」もので、「1日もなくてはならないもの」であり、「大豆の甘、温は気をおだやかにし、腹中をくつろげて血を生かし、百薬の毒を消す。麹(こうじ)の甘、温は胃の中に入って、食及びとどこおりをなくし、消化をよくし閉塞を防ぐ。元気をつけて、血のめぐりをよくする」効果があるとしています。
 庶民は経験に基づく伝承によって「手前みそ」を醸造し、調味料としてのみならず、保健のための栄養素として、みそをべ一スにした食生活を確立したのです。江戸庶民の文化やパワーも、「みそがあってこそ」のものだったといえるでしょう。 農家では、どんな飢饉の時にもみその仕込みだけは欠かしませんでした。たとえ穀類の収穫が減少しても、みそがあれば飢えをしのぎ、健康を守ることができると信じられており、事実、諸国を治める大名諸侯はみそづくりを奨励していました。
金山寺みそ
(径)山寺みそは、舐め味噌の一種で、調味料として使用するのではなく、おかずとして食べる味噌です。元々は夏野菜を冬に食べるための保存食で、米・麦・大豆に瓜・茄子・生姜・紫蘇を混ぜ合わせ醸造したものです。
 その歴史は、鎌倉時代の褝僧法燈国師(ほうとうこくし)が宋の国(中国)径山寺で修行のかたわら径山寺味噌の製法を習得し、帰国後、紀伊由良に西方寺(後の興国寺)を建立し在山すること四十余年、その間径山寺味噌の製法を伝授したのが「金(径)山寺みそ」の始源であると伝えられています。